1-ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
1770年12月16日-1827年3月26日
▶︎幼少期とボン時代(1770年 – 1792年)
1770年:12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、宮廷歌手の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと母マリア・マグダレーナの第二子として生まれる。同姓同名の祖父ルートヴィヒはケルン選帝侯宮廷の楽長であり、一家の生計を助けていた。
父ヨハンは、ルートヴィヒの才能に期待し、3歳頃から虐待ともいえる苛烈な音楽のスパルタ教育を施す。
1778年:ケルンでの演奏会に出演し、7~8歳でデビュー。
1779年:ボンに移住してきたクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事し、彼からJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』などを学んだ。ネーフェはベートーヴェンを「第2のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとなることは間違いない」と評した。
1782年:初の出版作品である鍵盤楽器のための《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲》WoO 63が出版される。
1787年:春にウィーンへ旅し、モーツァルトを訪問したとされるが、母親の危篤の報を受け約2週間でボンに戻る。同年7月に母が死去。
1789年:父ヨハンのアルコール依存症と鬱病が悪化し、ベートーヴェンは選帝侯に嘆願して父の給料の半分を自身に渡してもらい、若くして一家の大黒柱として家計を支える。
ボン時代の後期には、鍵盤奏者やヴィオラ奏者として宮廷で経験を積み、啓蒙的な思想やフランス革命への共感を育む。この時期に《皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ》などの初期の重要作品を作曲。
1790年・1792年:ロンドンへの旅行の途中にボンに立ち寄ったヨーゼフ・ハイドンと会う。ハイドンはベートーヴェンの才能を認め、弟子としてウィーンに来ることを約束した。
1792年:11月、ハイドンに弟子入りするためウィーンへ出発。以後、二度とボンに戻ることはなかった。
▶︎ウィーン時代初期(1793年 – 1802年)
ウィーンでは、ハイドンに師事するも、ヨハン・シェンク、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー、そしてアントニオ・サリエーリなど、当時の高名な音楽家たちに並行して作曲や対位法を学んだ。
ボンからの俸給は打ち切られたが、ウィーン到着当初から貴族の間で知られ、生涯を通して多くの貴族の後援を得て、固定された職務を持たない自由な芸術家として活動できた最初の主要な作曲家となる。
卓越したピアニスト、特に即興演奏の才能で瞬く間に名声を広げ、1795年に《3つのピアノ三重奏曲》Op. 1を出版。
1796年:プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅行し、演奏会を行う。この頃には既に同世代で最も評価される作曲家の一人となっていた。
1798年頃:聴覚障害の兆候が現れ始める。
1800年:交響曲第1番を初演。初期の作風はハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるが、既にスケルツォの導入など独自の創意が見られる。
1802年:聴覚障害の悪化とそれにまつわる苦悩から、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットで『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためる。しかし、最終的には自殺の衝動に打ち勝ち、芸術への情熱をもって生きる決意を表明し、新たな芸術の道へ進む。
▶︎ウィーン時代中期(1803年 – 1812年)
『ハイリゲンシュタットの遺書』で示された危機を乗り越えた後、創作力が爆発的に高まり、「傑作の森」(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。
この時期の革新的な様式は、しばしば「英雄的様式」と呼ばれる。主題の徹底した動機労作によって形式を拡大し、劇的なダイナミズムと統一感を持つ大規模な作品を生み出し1803年:交響曲第3番《英雄》の作曲に着手し、翌年発表。ナポレオンを意識して作曲されたが、彼が皇帝に即位したことに激怒し、献辞の書かれた表紙を破り捨てたという逸話が残る。
1804年 – 1807年:未亡人ヨゼフィーネ・フォン・ダイム(旧姓ブルンスヴィク)に熱烈な愛情を抱くが、関係は破局を迎える。主要な作品:交響曲第3番《英雄》から第8番まで、ピアノ協奏曲第3番から第5番《皇帝》、ヴァイオリン協奏曲、唯一のオペラ《フィデリオ》(初演1805年)、序曲《コリオラン》、など。
交響曲ではメヌエットからスケルツォへの置き換え(第2番以降)、ソナタ形式の拡大、楽章の連結(第5・6番)、標題的要素(第6番)など、革新的な技法を編み出した。「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式(第5番に典型)は、後のロマン派音楽に大きな影響を与えた。
1810年:主治医の姪テレーゼ・マルファッティに求婚するも断られたとされる。
1812年:「不滅の恋人」へ宛てた手紙(書簡)が書かれる。相手はアントーニエ・ブレンターノが有力とされる。
▶︎ウィーン時代後期(1813年 – 1827年)
1813年 – 1818年頃:この時期、創作に停滞が見られる。要因として「不滅の恋人」との関係の終焉、ナポレオン戦争による経済状況の悪化、そして難聴のさらなる悪化が挙げられる。
1814年:公の場でのピアニストとしての活動は、この年の《大公》三重奏曲の演奏が最後となる(伴奏を除く)。
1815年:弟カスパル・カールの死後、息子の甥カールの後見人指名を巡り、義妹ヨハンナとの間で約4年半にわたる法廷闘争が起こる。この苦悩も創作活動に大きな障害となった。
1817年頃:全聾となり、日常会話には「会話帳」が使われるようになる。
1818年:ピアノ・ソナタ Op. 106《ハンマークラヴィーア》に着手し、後期の作品群への道を押し開いた。
1820年代の後期様式は、音楽がより内省的・思索的になり、変奏曲やフーガの技法が極められた。伝統的な要素と革新性、複雑さと単純さといった相矛盾する要素が直接ぶつかり合う極度の対照性が特徴で、「難解」とも評される。
主要な作品:《ミサ・ソレムニス》(1823年)、最後の3つのピアノ・ソナタ(第30~32番)、交響曲第9番《合唱付き》(1824年)、最晩年の5曲の弦楽四重奏曲(第12~16番)、など。
交響曲第9番は、第4楽章に独唱・合唱を含む声楽を導入し、楽章の構成(スケルツォと緩徐楽章の逆転)も型破りで、音楽史上の画期的な作品となった。
晩年:肝臓病、肺炎、大腸炎など病状が悪化し、1826年12月以降は病臥に伏す。
1827年:3月26日、肝硬変のため56歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。葬儀には2万人もの人々が参列した。
ハイドンやモーツァルトといった古典派の様式美を体得しつつ、ロマン主義への扉を開く革命的な技法と精神性を融合させた。
貴族に仕えるのではなく、後援を受けつつも対等な立場で契約を結び、経済的に自立した最初期の作曲家の一人となった。
「自由、平等、博愛」のフランス革命の精神を熱く支持し、その理想を作品のメッセージ性(特に交響曲第9番)に込めた。
生涯を通して「交響曲」「弦楽四重奏曲」「ピアノ・ソナタ」の3つのジャンルに取り組み、常に先鋭的かつ実験的な精神をもって作品ごとに新たな境地を開き、後世の作曲家に計り知れない影響を与えた。
ピティナピアノ曲事典より
https://enc.piano.or.jp/persons/302
交響曲集
出典@MsMasayan9256
ピアノソナタ集
出典@classicalmusicreference
ピアノ四重奏曲集
出典@scriptvideo1
2-コダーイ・ゾルターン
Kodály Zoltán
1882年12月16日 – 1967年3月6日
ハンガリーの作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。
日本コダーイ協会
1882年12月16日、ハンガリーのケチケメート(鉄道駅員宿舎)に生まれる。父の転勤に伴い、幼少期をガラーンタやナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)などで過ごす。
両親とも熱心なアマチュア音楽家(父:ヴァイオリン、母:ピアノ)であり、幼い頃から音楽に囲まれた生活を送る。コダーイ自身もヴァイオリンを始め、聖歌隊で歌い、作曲も試みるが、系統的な音楽教育はほとんど受けていなかった。
古代ギリシャのように音楽が生活の中心であった幼少期の経験が、後の音楽教育の概念に大きな影響を与えた。
1900年、ブダペスト大学(エトヴェシュ大学)のハンガリー語・ドイツ語学科に優秀な成績で入学。同時にハンガリー王立音楽院(リスト・フェレンツ音楽大学)作曲科にも合格し、ハンス・ケスラー(保守的な作曲家)に師事する。
大学ではギリシャ語とラテン語も学ぶ。
1905年、人里離れた村を訪れて民謡の採集活動を開始。この活動は後に約60年にも及ぶ。
1906年、ハンガリー民謡に関する論文「ハンガリー民謡の詩節構造」を執筆。この頃、後に妻となるシャーンドル・エンマに出会い、エンマを通じて生涯の僚友となるバルトーク・ベーラに出会う。コダーイはバルトークにハンガリー民謡の手ほどきをし、共に民謡集の出版を手がけるなど、作曲活動にも民謡の影響が現れ始める。
1907年、哲学と言語学において博士号を授与される。
パリに留学し、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、影響を受ける。
1907年にブダペストに戻り、ブダペスト音楽院の教授となる(当初は音楽理論、後に作曲教授)。学生の読譜力の乏しさを憂慮し、その向上に尽力。多くの優れたハンガリーの作曲家を輩出した。
1910年、19歳年上のシャーンドル・エンマと結婚。第一次世界大戦中も休むことなく民謡収集の旅を続けた。この間、2曲の弦楽四重奏、「チェロとピアノのためのソナタ」
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「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」
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などの作品を発表。
1923年、ブダ・ペスト合併50周年記念の演奏会で「ハンガリー詩篇」が初演され、大成功を収める。以降、自作の指揮でヨーロッパ中を巡る。
1925年の児童向け合唱曲「ごらん、ジプシーがチーズを食べている」の作曲をきっかけに、音楽教育の問題に強い関心を持つようになる。
教育用の曲や教科書を多数書き、ハンガリー内外の音楽教育に重大な影響を与えた。
その手法は「コダーイ・メソッド」と呼ばれるが、実際には音楽教育の原理を定めたものであり、コダーイ自身は包括的な手法を作り出したわけではないとされる。
主な作品に、オペラ「ハーリ・ヤーノシュ」(組曲が有名)
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「マロシュセーク舞曲」
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「ガランタ舞曲」
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「『孔雀』による変奏曲」
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「ミサ・ブレヴィス」
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などがある。
1930年、ブダペスト大学の哲学科で講義を行い、民俗音楽の歴史と意義について議論を深める。第二次世界大戦中もブダペストに留まり、1942年に教職を退く。戦時中はペテーフィ・シャーンドルの詞に基づく愛国的な作品を作曲。戦闘が始まると修道院に待避し、そこで「ミサ・ブレヴィス」を編曲した。
1945年、ハンガリー国民芸術会議の議長となる。
1950年、生まれ故郷のケチケメートに最初の音楽小学校を設立。これはコダーイの教育思想が本格的に形となったもので、後にブダペストや他地域にも広がる。
コダーイの教育思想は、音楽はすべての人のものであるという民主的な原則と、歌うことに焦点を当てた音楽教育が子どもの心を開放し、他教科にも良い影響を及ぼすという信念に基づいている。
1958年、妻エンマが死去。
1959年12月、リスト・フェレンツ音楽院の学生だったピーツェリー・サロルタ(当時19歳)と再婚。
1960年 – 1966年、毎年海外に長期旅行し、講演や会議に出席。
1962年、ハンガリー人民共和国の勲位を受ける。
国際民族音楽評議会会長、国際音楽教育協会名誉会長なども務めた。
1964年、ブダペストでISME(国際音楽教育学会)の世界大会が開催され、「コダーイ・コンセプト」の成果に驚きと関心が集まり、世界のお手本となる。
1966年、コダーイの名を冠した「コダーイ弦楽四重奏団」が結成される。
1967年、ブダペストで死去(84歳没)。ファルカシュレート墓地に埋葬された。
《セレナード》
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《夏の夕べ》
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《弦楽三重奏のための間奏曲》
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《無伴奏チェロソナタ》
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再生リスト
3-ゲオルギー・ヴァシレイヴィッチ・スヴィリードフ
Georgy Vasilyevich Sviridov
1915年12月16日 – 1998年1月5日
ソビエト時代のロシア人作曲家。20世紀後半のロシアを代表する作曲家の一人。
ロシアのクルスク州ファテジで、郵便局員の父と教師の母のもとに生まれました。幼い頃に父親を亡くし、教師の母親が働いて得た褒美として自宅に置かれたピアノによって、音楽との縁が始まる。しかし、彼はすぐにピアノよりもバラライカに夢中になり、地元の民俗楽器アンサンブルに参加するほどの才能を見せるようになる。
1927年にクルスク音楽学校を卒業した後、小学校教師の勧めもあり、1932年にレニングラード(現サンクトペテルブルク)の音楽専門学校に入学。在学中の1935年、アレクサンドル・プーシキンの詩による歌曲集「六つのロマンス」で最初の成功を収めた。この作品の叙情的でシンプルな和声とテクスチャーは、後のスヴィリードフの作風の特徴となる。この成功が認められ、翌1936年にはレニングラード音楽院に入学し、著名な作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチに師事。彼は1941年に音楽院を卒業し、1940年代にはレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団に所属しながら「勇者の歌」など戦争に関連する楽曲も制作した。
スヴィリードフは、ソヴィエト政府が掲げた「社会主義リアリズム」路線に沿う、大衆に古くから親しまれた民謡や平易な音楽素材を用いた、分かりやすさが特徴の作品を多く生み出した。特に声楽曲の作曲家として重要な存在であり、数多くの合唱曲や数千曲の歌曲を手掛けている。
ソ連音楽界の重鎮となった彼は、レーニン賞、ソ連人民芸術家(1970年)、社会主義労働者英雄など、多数の栄誉を授与された。また、1962年から1974年まで作曲家同盟の委員を務め、1968年から1973年まではショスタコーヴィチの後任として同同盟の代表も務めた。
しかし、彼の人生には師であるショスタコーヴィチとの関わりの中で特筆すべきエピソードがあります。1948年、社会主義リアリズム路線に反すると見なされた芸術家たちが一斉に批判された「ジダーノフ批判」の際、師ショスタコーヴィチが批判の槍玉に挙げられたが、スヴィリードフは当時では覚悟と勇気を要する行動にもかかわらず、この批判に決して同調しなかった。そして、この行動が問題視されることもなかった。
1956年にモスクワに移住した後は、交響曲、カンタータ、ロマンスなどさらに多作な活動を展開し、その楽曲の多くは現在でもBGMとして何気なく耳にされている。代表的な作品の一つが、1965年公開の映画『時よ、前進!』の主題曲です。この力強い音楽は、現在もチャンネル1ロシアのニュース番組『ヴレーミャ』のオープニング曲として長年使われ続けており、2014年のソチ五輪開会式でもロシア革命のシーンで使用されました。また、ソビエト連邦共産党書記長として最高権力者であったユーリ・アンドロポフが、好きな作曲家の一人としてスヴィリードフの名を挙げたことも知られている。
1998年、モスクワで死去。皮肉にも、東洋学部日本学科を卒業しロシア人で初めて日本中世のおとぎ話を紹介した日本学者であった彼の息子が、その前年1997年12月に京都で亡くなっており、その後を追うようにこの世を去った。
ピティナピアノ曲事典より
https://enc.piano.or.jp/persons/142
《「吹雪」~プーシキンの物語への音楽の挿絵~》
出典@RoddersClassical
《時よ、前進!》
出典@LeoRexAnimalium
《ピアノトリオイ短調作品6》
出典@BESTOFCLASSICALMUSIC
《子供のためのアルバム》
出典@RosemaryThomas1
再生リスト
4-ウィリアム・J・シンスタイン
William Joseph Schinstine
1922年12月16日-1986年1月3日
アメリカの作曲家です。
いくつかの彼の作品は、主に「打楽器アンサンブル」や「ボディ・パーカッション(体を使った打楽器)」のスタイルで知られています。
ウィリアム・ジョセフ・シンスタインは、1922年12月16日にアメリカ合衆国ペンシルベニア州イーストンで生まれた。
1940年代、彼はニューヨーク州の イーストマン音楽学校(Eastman School of Music)で学び、1945年に学士号(Bachelor of Music)を取得した。
その後、教育分野にも進み、1962年にペンシルベニア大学で教育学の修士号(Master of Science in Education)を取得している。
シンスタインは演奏家としても活動し、ロチェスター・フィルハーモニック管弦楽団、ナショナル交響楽団、ピッツバーグ交響楽団、サンアントニオ交響楽団などで打楽器奏者を務めた。
サンアントニオ交響楽団では主要打楽器奏者としても活動したと記録されている。
1950年代以降、彼はペンシルベニア州ポットスタウンに居住し、公立学校の音楽教師として約27年間にわたり、バンド・一般音楽・打楽器教育に従事した。
同時に私立の音楽教育施設 S&S School of Music を開き、多くの学生の指導にも携わった。
シンスタインは軍務中の事故で左手の親指と人差し指を失う重傷を負ったが、独自の奏法を工夫して演奏活動を続けた。
ただし怪我の影響は大きく、のちにプロ奏者としてのキャリアを離れ、教育と作曲に主軸を置くようになった。
この経験は、彼が後年残した多数の教育的作品や、身体的制約を超えて演奏可能な打楽器作品に強い影響を与えたとされる。
作曲家としても精力的に活動し、打楽器ソロ、アンサンブル、吹奏楽などにわたる300作以上の作品を出版したとされる。
教則作品も多く、教育的価値の高い曲を数多く残したことで知られる。
1986年1月3日、シンスタインはペンシルベニア州アレンタウンで死去した。
没後、彼の教育・作曲への貢献が評価され、2002年には Percussive Arts Society から “Lifetime Achievement in Education Award” を授与された。
《ロック・トラップ》
出典@86PennyLane86
《ボサ・ノヴァ・ウィズアウト・インストゥルメンツ》
出典@LMUPercEnsemble
5-ロディオン・コンスタンティノヴィチ・シチェドリン
Rodion Konstantinovich Shchedrin
1932年12月16日 – 2025年8月28日または8月29日
モスクワの音楽家の家庭に生まれ、モスクワ音楽院で作曲をユーリ・シャポーリン、ピアノをヤコフ・フリエールに師事した。
学生時代にアラム・ハチャトリアンのコンクールで最優秀賞を受賞するなど早くから才能を発揮し、初期には交響曲第1番などで作曲家としての地位を確立し、初期から中期にかけてはセリーやジャズの要素を取り入れたピアノ協奏曲第2番(1967年)や、バレリーナであった妻マイヤ・プリセツカヤのために作曲したバレエ《カルメン組曲》(1967年)などのヒット作を生み出した。
出典@hrSinfonieorchester
ソ連体制下では、1973年から1990年までソ連作曲家同盟の議長を務めるなど指導的な立場にあったが、1968年のチェコスロヴァキア軍事侵攻への支持署名を拒否したことから、1969年にはモスクワ音楽院の教職を辞している。
1980年代後半には、日本のホリプロからの依頼でミュージカル『12ヶ月のニーナ 森は生きている』
出典@vss.childrens
の作曲(1988年)や、サントリーホールからの委嘱による管弦楽のための協奏曲第4番《輪舞=ホロヴォード》(1989年)
出典https://youtube.com/channel/UC7xv5gHxnjdLbHDG_SzYv8w?si=p40bgCya_EgiwQy3
を発表するなど国際的な活動を展開し、ソ連崩壊後はミュンヘンとモスクワを拠点として活動を続けた。ソ連人民芸術家、レーニン賞、ロシア国家賞など数多くの栄誉に輝き、2025年8月28日から29日にかけての夜に、ドイツ・ミュンヘンの病院で92歳で亡くなりました。
《ピアノ協奏曲第2番》本人の演奏で
出典@ADGO
《管弦楽のための協奏曲 第1番「お茶目なチャストゥーシュカ」》
出典https://youtube.com/channel/UC-BjtvY3CwdJrAgDJMYmByw?si=mOcD4kOssyu0DP2c
6-山本 直純
Naozumi Yamamoto
1932年12月16日-2002年6月18日日本の作曲家、編曲家、指揮者。東京都出身。
父は作曲家・指揮者の山本直忠であり、幼少期から徹底した音楽英才教育を受け、自由学園で学んだ後、高校時代からは齋藤秀雄指揮教室で齋藤秀雄に指揮法を師事した。東京芸術大学の作曲科に入学(池内友次郎に師事)したが、後に指揮科へ転科し、渡邉曉雄のもとで学び1958年に卒業。大学在学中から、眼病による視力低下と家族を養う必要から、テレビや映画音楽といった分野へ積極的に進出し、童謡『歌えバンバン』や『一年生になったら』、TV『8時だヨ!全員集合』のテーマ曲、そして映画『男はつらいよ』の主題歌など、シンプルで明快なメロディーを数多く生み出した。指揮者としても、1972年に小澤征爾らと新日本フィルハーモニー交響楽団を結成したほか、1979年と1980年には日本人として初めてボストン・ポップス・オーケストラを指揮している。また、日本のクラシック音楽の普及に多大な貢献を果たし、1973年から10年間、TBSのテレビ番組『オーケストラがやって来た』の総合司会を務めたほか、1983年には「サントリー1万人の第九」を企画し、1998年まで総監督・指揮を務め続けた。口ひげと黒縁メガネがトレードマークの自由奔放なキャラクターで知られ、タレントとしてもCM出演などで人気を博したが、2002年6月18日に急性心不全のため69歳でこの世を去った。