ドメニコ・チマローザ
Domenico Cimarosa
1749年12月17日- 1801年1月11日
イタリアの作曲家。
18世紀後半のイタリアを代表する作曲家であり、オペラ・ブッファ(喜劇オペラ)の第一人者として、ロッシーニが登場するまでその地位を保った
貧しいレンガ職人の父と洗濯婦の母のもとに生まれ、幼い頃から楽才に優れていることが認められていた。
僧院のオルガン奏者の援助を受け、11歳で現在のナポリ音楽院の前身であるサンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院に入学し、ナポリで訓練を受ける。
1771年(22歳)に最初のオペラで成功を収め、1778年頃(29歳)からはローマの各劇場からの作曲委嘱を受けて活躍した。ローマでは、教皇の命令によりカストラートたちが女性役を演じ歌う環境であった。
1787年(38歳)、ロシアの女帝エカテリーナ2世に招かれ、サンクトペテルブルクの宮廷楽長に就任し、4年間滞在した。この頃、鍵盤楽器のためのソナタを作曲している。
1791年(42歳)、ロシアを去る途中でウィーンに立ち寄り、皇帝レオポルド2世の招きにより、アントニオ・サリエリの後任としてウィーン宮廷楽長に就任した(モーツァルトが亡くなった年)。
1792年(43歳)、代表作となるオペラ『秘密の結婚(Il matrimonio segreto)』を作曲した。
英語字幕あり
出典@Euroarts
しかし、レオポルド2世が没したこともあり、ウィーンでの地位の重要性が薄れたためか、ウィーンには執着しなかった。
1793年(44歳)、ナポリに戻り、『女の手管』
出典@GermanYukavskyや『ペネローペ』(1794年)(音源見つからず)などのオペラを次々に発表しました。
1799年(50歳)、ナポレオン率いるフランス軍により一時共和制が布かれた際、革命政府の要請で「共和国賛歌」を作曲し、新時代の到来を賛えた。
しかし、半年後に王政が復活すると、王政復古後に反逆者とみなされ、逮捕・投獄される。友人と支援者の仲介により死刑は免れたものの、ナポリを永久追放処分となった。
政治と戦争に翻弄され、拘禁と過労で心身ともに衰弱したチマローザは、彷徨うようにヴェネツィアへ向かう。
1801年1月11日(52歳)、ヴェネツィアでフェニーチェ劇場から依頼されたオペラ『アルテミシア』を未完のまま急死した。当時、彼の高い名声から毒殺の噂が広まったが、ナポリ政府は後に死因を内臓疾患(胃癌)と発表した。
オペラは生涯で約70曲を数え、他にレクイエム、オラトリオ、チェンバロ・ソナタなどがある。
彼の音楽は美しい旋律が印象的で、「古典派のソナタのもっとも洗練された、自由闊達な姿」を持ち、オペラのアリアや間奏曲がクラヴィーア音楽に置き換えられたようだと評された。
同年生れのゲーテは彼の音楽を賞賛し、文豪スタンダールもモーツァルトとともにその美しさを絶賛。
オーストラリアの作曲家アーサー・ベンジャミンは、彼のチェンバロ・ソナタから4曲を選んで編曲し、人気のオーボエ協奏曲にしている。
《2つのフルートのための協奏曲》
出典@mlcicu
《フルート四重奏曲第3番》
出典@DerWanderer-v5w