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作曲家のお誕生日に代表曲を《281》シベリウス、クエラル、マルティヌー、ヴァインベルグ

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1-ジャン(ヤン)・シベリウス
Jean Sibelius 

1865年12月8日- 1957年9月20日
後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。

母語はスウェーデン語であったが、フランス風のファーストネーム「ジャン」は、船乗りであった叔父の名刺に触発されて使い始めました。

1865年12月8日:ロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国ハメーンリンナに生まれる。
父が早世する。
叔父ペール・フェルディナンド・シベリウスから音楽的影響を受け、10歳でヴァイオリンを贈られる。
幼少期から自然に強い関心を示し、ロヴィーサでの夏季休暇を特に好みました。
7歳でおばからピアノを習うが、ヴァイオリンの方を好み、後にヴァイオリンのヴィルトゥオーソを目指します。
1881年頃、最初の楽曲(『水滴』)を書く。

出典https://youtube.com/channel/UCl2k-_wTue0Ttj4rsaKsSdw?si=N2bwvM5i1ueqGbQx

1876年フィンランド語の学校に進学し、1885年に大学入学資格を取得。
ヘルシンキ大学法学部に入学するが、すぐに音楽への興味からヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入。
音楽院では創設者のマルティン・ヴェゲリウスに初めて正式に作曲を学び、ピアニスト・作曲家のフェルッチョ・ブゾーニと生涯の友情を結ぶ。
1889年ベルリンへ留学しアルベルト・ベッカーに対位法を師事。リヒャルト・シュトラウスやロベルト・カヤヌスの作品に触れ、特にカヤヌスの『アイノ』が叙事詩『カレワラ』に基づく作曲への関心を持つきっかけになった可能性があるとされる。
1890年、ウィーンへ移り、ロベルト・フックスやカール・ゴルトマルクに師事。この頃から管弦楽曲の作曲に目を向け始めます。
1891年、フィンランドに帰国し、教職に就く傍ら民謡に関心を示す。
1892年6月10日、士官の娘アイノ・ヤルネフェルトと結婚。新婚旅行で訪れたカレリアでの体験が、
『エン・サガ』

出典@TNM220Billy

『カレリア』

出典@sonorumconcentusromanticer3302
などを着想。
1892年、『カレワラ』を題材とした大作『クレルヴォ交響詩』

出典@13Orcun
が初演で大成功を収め、作曲家として管弦楽へと意識を向け始めます。
1898年、教授職で多忙だったが、年次助成金が交付されるようになり、作曲により集中できるようになる。
1899年、ロシア化の試みへの抵抗から愛国心が高まる中、交響曲第1番が初演され好評を得る。同年、さらに愛国心を露わにした
『アテネ人の歌』


出典https://youtube.com/channel/UCxXG6q-WGJ7sT2v-C9G0OlA?si=9lr4jxdFSJkcS0hU

『フィンランディア』

出典@berlinphil
が発表され、特に『フィンランディア』は交響曲第1番を上回る大成功を収め、彼は国民的英雄の地位を得る。
1900年、カヤヌスと管弦楽団とともにヨーロッパ各地を巡る演奏旅行を行い、国際的な名声を得る。
1902年、交響曲第2番がヘルシンキで初演され、熱狂的に迎えらる。


出典@wocomoMUSIC
1903年、借金と飲酒癖により生活が荒れますが、『悲しきワルツ』が成功作。


出典@parnumusicfestival270

1904年、トゥースラ湖畔に自邸アイノラを建設し、移り住みます。
1907年、暴飲暴食と闘いながら、作風が新古典主義へ転身した交響曲第3番を発表。


出典@berlinphil
1908年:喉の腫瘍除去手術を受け、健康を脅かされた経験が交響曲第4番などの作品に影響を与えたと言われている。
1915年、第一次世界大戦により国外からの印税収入が滞り、小規模な作品を多作することを余儀なくされる。同年、交響曲第5番に着手し、白鳥の群れに触発されて終楽章を作曲。


出典@OsloPhilharmonic

1917年〜1918年、フィンランド独立前後には愛国的な『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』(編曲)が人気を博し、フィンランド内戦ではアイノラが捜索を受けるなど緊張を強いられる。
1920年代
交響曲第6番(1923年)


出典@greatclassicrecords

交響曲第7番(1924年)


出典@Ar10U

交響詩『タピオラ』(1926年)


出典@berlinphil

劇付随音楽『テンペスト』(1926年)の完成。


出典@pedrohenriqueprata
1920年〜1925年頃、この時期を境に創作活動が事実上停止。
1930年代、交響曲第8番に取り組んでいた証拠が残るものの、自己批判により楽譜のほとんどを破棄。
1955年、90歳の誕生日が盛大に祝われ、世界中で彼の音楽が演奏された。
1957年9月20日、アイノラにて脳内出血により91歳で永眠。国葬によって葬られ、アイノラの庭に埋葬されました。妻アイノも1969年に彼の隣に葬られた。

シベリウスピアノ曲集
有名な「樅の木」も入っています


出典@BrilliantClassics

再生リストhttps://youtube.com/playlist?list=PLbiN72MaBlLgru12nt_v5CZZx42fbU3bp&si=U3v7T5F97J1pd-0W

 

2-マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル
Manuel María Ponce Cuéllar
1882年12月8日 – 1948年4月24日
メキシコの作曲家・音楽教師、ピアニスト。後期ロマン派音楽の作曲様式から新古典主義に転じた。

サカテカス州フレスニージョで生まれ、幼少期にアグアスカリエンテスへ移る。地方の聖堂で教育を受け、16歳で教会のオルガニストを務めるなど早期から音楽の才能を発揮した後、メキシコシティ国立音楽院で学ぶ。
1905年に渡欧し、ボローニャとベルリンでリストの弟子マルティン・クラウゼにピアノを師事。
1907年に帰国して母校で教鞭を執り、この時期の門人にはカルロス・チャベスがいる。ピアニストとしてはドビュッシー作品の紹介に努め、またメキシコ革命の混乱期にはキューバに滞在し、ニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。帰国後は国立交響楽団の指揮者を務めます。
1925年からの第二次渡欧では、パリ音楽院でポール・デュカスに作曲を師事し、短期間ナディア・ブーランジェにも学びました。このパリ滞在中にギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結び、彼のために『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』など多くの優れたギター作品を、セゴビアの演奏技巧に基づき作曲。
1933年に帰国すると、メキシコ大学や母校で指導者、作家、そして音楽界の指導的人物としての地位を確立した。
ポンセの作風は、ロマン派から始まり、シューマンを思わせる初期のピアノ協奏曲から、スペイン征服後の民謡など民族的要素を近代風に取り入れた作品、さらにフランス留学後は新古典主義や多調を取り入れた先鋭的なスタイルへと変遷した。
代表作は、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品としても有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』
歌曲

出典@arisbedelabarrera7543

ハイフェッツアレンジ


出典@vucabrera

そしてセゴビアのために書かれたギター協奏曲『南の協奏曲』(1941年)が挙げられる。

出典@TIGF_TWIWAN

晩年は腎臓病などに苦しんだものの、1948年に音楽家として初めて「芸術科学国家賞」を受賞しましたが、間もなく尿毒症によりメキシコシティで死去しました。
翌1949年には、メキシコ国立芸術院のホールが「サラ・マヌエル・M・ポンセ」と命名され、その功績が称えられています。

 

3-ボフスラフ・マルティヌーBohuslav Martinů
1890年12月8日 – 1959年8月28日
チェコ出身の作曲家。6曲の交響曲を始め、様々な楽器のための30曲近くもの協奏曲、11作のオペラをはじめ、あらゆる分野で作曲を行うなど大変な多作家であった。

ボヘミアとモラヴィアの境界付近にある小さな村ポリチカで、靴屋を営む両親のもとに生まれた。両親はヤコブ教会の鐘楼塔の管理を任されており、彼はこの塔の中で内向的な少年時代を過ごす。
7歳でヴァイオリンを始め、めきめきと上達し、12歳で弦楽四重奏曲を作曲するなど才能を示しました。
篤志家の援助を受けプラハ音楽院に入学するが、授業に不満を持ち「慢性的な怠慢」により1910年に退学処分。その後、故郷の小学校で教師を務めたが、1917年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となる(正式楽員は1920年から)。
1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』


出典@JanFila
でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてデビュー。同年、国民劇場オーケストラの国外公演で訪れたパリで印象派音楽に魅せられ、特にルーセルのスコアを研究した。
1922年にはスークのマスタークラスに入り作曲を学び、翌1923年、奨学金を得て念願のパリへ渡ります。パリではアルベール・ルーセルに対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキー、ヒンデミット、プロコフィエフなどの影響を強く受けた。作風は、ロマン派の和声やシンコペーションを多用した初期のスタイルから、擬古典的なものへと変化し、故郷の民謡を題材にバロック形式の作品(『シュパリーチェク』など)を書くようになる。この頃、縫製工のシャルロットと結婚し、マルセル・ミハロヴィチらと外国人4人組を結成。
1938年のミュンヘン協定締結後は、二度と故郷の土を踏むことはなかった。
1940年、ナチスのブラックリストに載ったことを知り、友人の援助を受けてスイスを経由し、1941年にアメリカ合衆国へ亡命した。
アメリカ滞在中の1940年代は彼の創作の頂点にあたり、彼の6曲の交響曲のうち5曲がこの時期に作曲された。この間、プリンストン大学などで教鞭を執り、教育活動にも身を投じました。
1945年、祖国解放後プラハ音楽院から教授招聘を受け快諾したが、返事がないまま話は立ち消えとなった。
1946年夏、バークシャー音楽センターで講義中にバルコニーから転落し重傷を負い、後遺症に悩む。1948年のチェコスロバキア政変で共産党政権が誕生し、友人のヤン・マサリク外務大臣の死に接し、帰国を断念。
望郷の念やまぬ彼は、1953年5月にヨーロッパへ戻り、ニースやシェーネンベルク、ローマのアメリカアカデミーなどで過ごした。
晩年の作品は「望郷の歌」ともいえる幻想的新印象主義の色合いが濃い、形式にとらわれない作風に変わる。記念碑的な
『第6交響曲(幻想交響曲)』


出典@RoddersClassical

カンタータ『泉開き』


出典@JanFila

など、多作で知られる彼の全作品は約400曲に上る。
1958年11月に胃の手術を受けましたが、すでに癌が進行しており、1959年8月28日、スイスのリースタルの病院で死去した。遺体は友人パウル・ザッハーが所有する森に葬られましたが、死後20年を経た1979年に遺灰が故国ポリチカに帰還。夫人の眠る墓石には、カンタータ『泉開き』の一節から「Jsem doma」(われ、故郷にあり)の二語が刻まれた。

《九重奏曲第2番》


出典@RoundTopFestivalInstitute

《ラプソディ・コンチェルト》

出典@FilharmoniaNarodowa

《二重奏曲第1番「3つのマドリガーレ」》


出典@GNGianopoulos

《調理場のレヴュー》


出典@prestonatkins1337

《フルート、チェロとピアノのための三重奏曲》


出典@bcmfmusic

《交響詩「リディツェ追悼」》


出典@bartjebartmans

《セレナーデ第1番》

出典@welleszrhapsody3828

《シンフォニエッタ・ラ・ホッジャ》


出典@invertedninthchord

再生リスト

 

4-ミェチスワフ・ヴァインベルグMieczysław Wajnberg
モイセイ・サムイロヴィチ・ヴァインベルク
Moisey Samuilovich Vainberg
または Weinberg とも
1919年12月8日 – 1996年2月26日
ポーランド出身で、主にソビエト連邦・ロシアで活動した作曲家。

ポーランドのワルシャワでユダヤ人の家庭に生まれた。イディッシュ劇場のヴァイオリン奏者であった父シュミイルと女優であった母ソニアを持ち、12歳からワルシャワ音楽院でピアノを学び、1939年に卒業。
しかし、第二次世界大戦の勃発によりソ連へ亡命し、ワルシャワに残った両親と妹は強制収容所で命を落とす。
ソ連に避難した彼は、ミンスクでヴァシリー・ゾロタリョフに作曲を師事し、後にタシュケントで俳優ソロモン・ミホエリスの娘と結婚。
1943年、彼の才能を認めたドミートリイ・ショスタコーヴィチに招かれてモスクワに移住し、ショスタコーヴィチの親しい友人で影響を強く受けた作曲家として創作活動に励んだ。しかし、1948年には岳父ミホエリスが殺害され、同年2月のジダーノフ批判で作品が演奏禁止となり、さらに1953年2月には「ユダヤ人ブルジョア民族主義」などの容疑で逮捕されるが、ショスタコーヴィチの尽力とスターリンの死により翌月釈放され、名誉回復を果たした。
多作な作曲家として知られ、25曲の交響曲、17曲の弦楽四重奏曲、ホロコーストを題材にした
オペラ「パサジェルカ」


出典@dmitrynechaev5225
など多くの作品を残し、エミール・ギレリスやムスティスラフ・ロストロポーヴィチといった名だたる演奏家にも取り上げられた。晩年はクローン病に苦しみながらも作曲を続け、1996年1月3日に正教会に改宗した後、同年2月26日にモスクワで亡くなりました。

《弦楽四重奏曲第7番》

出典@peermusicclassicaleurope4994

《弦楽三重奏曲》

出典@lesschubertiadesdethonex117

《ヴァイオリン・ソナタ第5番》

出典@bartjebartmans

《2つのヴァイオリンのためのソナタ》


出典@bartjebartmans

再生リスト

Author: Sonare Piano Lessons

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