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作曲家のお誕生日に代表曲を《269》ネヴィン、タネーエフ

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1-エセルバート・ウッドブリッジ・ネヴィン
Ethelbert Woodbridge Nevin
1862年11月25日~1901年2月17日)はアメリカのピアニスト、作曲家

ペンシルベニア州エッジワース(オハイオ川沿いのヴァインエイカー、ピッツバーグ郊外のセウィックリー近郊)で生まれる。

父は新聞社の編集者・経営者で、選挙運動用の歌も作曲したロバート・ピーブルズ・ネビン。
母はピアニストのエリザベス・ダンカン・オリファント。アレゲニー山脈を越えて初めて運ばれたグランドピアノが、ネヴィンの母のために運ばれたという逸話がある。
弟のアーサー、従兄弟のジョージとゴードン・バルチ・ネビンも作曲家として名声を得るなど、音楽一家に育つ。
4歳でピアノを弾き始め、幼少期から音楽的才能を示す。
幼少期、父の指導のもと、声楽と器楽の両方を学ぶ。
父に連れられ2年間海外に滞在し、ドレスデンでフォン・ベーメのもとで音楽を学ぶ。
1878年、ウェスタン大学(現在のピッツバーグ大学)に入学するが、1879年に退学。
ボストンでベンジャミン・ジョンソン・ラングにピアノを、スティーブン・A・エメリーに作曲を2年間師事(1882年〜1883年)。
1884年、1885年、1886年をベルリンで過ごし、カール・クリンドワースにピアノを、オットー・ティエルシュに理論を師事。クリンドワースはネヴィンにゲーテやシラーなどの文学の影響を理解し、音楽をあらゆる芸術や人生の関心事から影響を受けるべきだと教えた。
1885年、ハンス・フォン・ビューローの芸術クラスに選ばれた優秀な生徒4人のうちの一人となり、ヨハネス・ブラームス、フランツ・リスト、ヨアヒム・ラフの作品のみを演奏する公開音楽会「Zuhören」に出演する栄誉を得た。
1882年、ピッツバーグに戻りレッスンを行い、渡航資金を貯める。
1886年12月、ピッツバーグでプロのピアノリサイタルデビューを果たし、成功を収めた。
1887年にアメリカに戻り、ボストンに居を構え、教えたりコンサートで演奏したりした。
1892年にパリに渡り、声楽を教え、多くのアメリカ人やフランス人のオペラ歌手を指導。
1893年にベルリンに移るが、過度な作曲活動により健康を害し、アルジェリアで1年間過ごす。
1895年初頭は国内各地で演奏旅行を行い、「涙を誘うタッチ」と評されました。
孤独と作曲に適した環境を求めてフィレンツェに移り、組曲『トスカーナの五月』(作品21)を作曲。

出典https://youtube.com/channel/UC8bPqMyaxls0kO-YYFmCFbw?si=ga7lcKSZP_TUind4

その後、ヴェネツィア、パリで過ごした。

晩年は借金と慢性的な鬱状態、それに伴う過度の飲酒に苦しむ。
働き過ぎにより健康状態は悪化し、手のしびれなどの症状が現れた。
1901年2月17日にコネチカット州ニューヘイブンで死去。
1940年、アメリカの「有名なアメリカ人」シリーズの1つとして、10セントの米国切手に描かれる。

《ロザリオの祈り(ロザリー)》

出典https://youtube.com/channel/UCfjlPBPB11jiv-VRoC4sf4g?si=zcuHkmdGuEp-xIGA

 

2-セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ
Sergei Ivanovich Taneyev
1856年11月25日 – 1915年6月19日)はロシアの作曲家、ピアニスト、教育者。

ロシア帝国・ヴラディーミルで、15世紀まで遡れる貴族の家系に生まる。父イヴァンは医師であり、アマチュア音楽家でもあった。タネーエフは5歳でピアノを始め、9歳の時(1866年)に一家がモスクワに移住した際、新設されたモスクワ音楽院に聴講生として入学(1869年に正式な生徒に)。
音楽院では、ピアノをニコライ・ルビンシテインらに、作曲と楽器法をピョートル・チャイコフスキーに師事し、特にチャイコフスキーには可愛がられた。1875年に金メダルを得て卒業した後、ピアニストとして活動を開始。卒業直後の1875年11月には、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』のモスクワ初演でソリストを務め、さらに1882年5月には同作曲家の『ピアノ協奏曲第2番』の世界初演も任された。
1878年より母校のモスクワ音楽院で教鞭を執り、和声と楽器法を担当。1881年には教授に昇格し、ニコライ・ルビンシテインの跡を継いでピアノ科教授も兼任。さらに、1885年から1889年までの4年間、音楽院院長を務めるなど、ロシア音楽界の中心人物となった。彼の門下からは、アレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフ、セルゲイ・プロコフィエフ、ニコライ・メトネルなど、ロシアを代表する偉大な音楽家たちが輩出されている。
タネーエフは作曲家としては、4曲の交響曲や6曲の弦楽四重奏曲など多数の作品を残したが、出版には無頓着であまり出版されていない。彼の作風はチャイコフスキー同様に保守的ですが、ロシア的な叙情性よりも構築性を重視し、対位法を駆使する「ドイツ的」な傾向が強いと評され、「ロシアのブラームス」の一人と呼ばれる。彼は特にバッハやルネサンス期の対位法の研究に熱心だった。理論家としても知られ、1909年に刊行された『可動的厳格対位法』をはじめとする著書がある。
私生活では、作家レフ・トルストイの寵愛を受け、トルストイ家を頻繁に訪れる客であった。
1905年、音楽院の権威主義的な運営に抗議して教授職を辞したが、その後も1906年に人民音楽院の創設に携わるなど、音楽教育への情熱は持ち続けた。
1915年に弟子のスクリャービンの葬儀に出席した際、薄着で棺を担いだことが原因で風邪を引き、心臓病を併発。モスクワ近郊のデューティコヴォ村でその生涯を閉じた。

ピティナピアノ曲事典より

https://enc.piano.or.jp/persons/170

《交響曲第4番》op.12

出典@mateuspereira9288

《ピアノ五重奏》op.30

出典@julianfwong

《序曲「オレステイア」(Oresteia Overture, Op. 6)》

出典@bartjebartmans

Author: Sonare Piano Lessons

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