現在のヨーロッパ

リストが生きていた頃(1800年時)のヨーロッパ

フランツ・リストは1811
年10
月22
日オーストリア帝国領内ハンガリー王国の
ライディングで
生まれました。
6
歳から
ピアノを
習い
始め、8
歳にもならない1819
年9
月には
バーデンという
ドイツの
街で
演奏し、
貴族たちの
前でも
演奏し、
驚かせたほどの
腕前だったそうです。9
歳のころの
演奏はさらに
貴族たちを
驚かせ、
奨学金を6
年間だして
勉強させてくれたのです。
音楽の
都ウィーンで
勉強したときの
先生は
ベートーヴェンの
弟子カール・
チェルニーでした。
練習曲で
有名なこの
チェルニーは、
リストの
レッスンは
無料でしたそうです。
11
歳の
時に
ウィーンの
楽壇に
デビュー。その
翌年の
演奏会には
ベートーヴェンが
聞きに
来ていて、
演奏を
聴いた
後リスト少年の
額に
キスをしたそうです。
素晴らしいと
思ったのでしょうね。
リストのお
父さんも
楽団で
チェロを
弾いたり
歌ったりする
人でした。
リストの
演奏家としての
仕上げの
勉強は
フランスの
コンセルバトワールでさせたいと
思ったそうです。ところが、、、
コンセルバトワールは
外国人を
入学させてくれなかったのです。
でも、
大丈夫。エラールという
フランスの
ピアノの
メーカーが
応援してくれて、
ピアニストとして
フランスでも
デビューすることに
成功したのです。
評判が
広がって、
イギリスや
スイスでも
演奏会を
開きましたが、お
父さんは、
リストが16
歳の
夏に
亡くなってしまいました。
お
父さんを
亡くした
辛い気持ち、その
後の
初恋も
実らなかったことから、
リストは
心を
癒すために、いろんな
本や
宗教の
本を
読んだそうです。
19
歳の
時、
リストは
フランスにいて「7
月革命」が
起きます。
下の
絵は
ドラクロワ「
民衆を
導く
自由の
女神」という
作品です。7
月革命を
テーマに
描いた
絵です。
リストは
街中にとどろく
銃声で
目が
覚めて、
強く
生きる
気持ちを
取り戻したそうです。
民衆を導く自由の女神・ドラクロア
20
歳の
時には、はじめて
パガニーニの
ヴァイオリンを
聴き、
感激のあまり
「
僕は
ピアノの
パガニーニになるか、さもなければ
気違いになる」
と
叫んだそうです。
パガニーニの
演奏は、
今までの
ヴァイオリンの
演奏の
枠を
超える
名人芸的演奏効果と
強烈な
表現性をもつものだったのです。
簡単な
言葉で
言うと、すごい
技を
持っていたと
言ったところでしょうか。
このようなことが、
彼を
音楽活動に
再び
向かわせる
情熱の
源となったのでしょう。
リストは「
ピアノの
魔術師」と
呼ばれ、
パリでも
話題の
ピアニストとなります。
当時アイドル的存在だったそうです。
そんな
時、
リストは
マリー・
ダグー伯婦人と
出会い
恋に
落ちます。
34
歳の
時には、
スイスへ
引っ越し2人で
住むようになり、
2人の
間には3
人の
子供ができました。
真ん中の
娘、
コジマはのちに
リストの
弟子であり
高名な
ドイツ人指揮者の
ハンス・
フォン・
ビューローと
結婚、さらに
リヒャルト・
ワーグナーと
再婚します。
36
歳まで
演奏し、
ヨーロッパ各地で
人気の
ピアニストとして
活躍しました。それからは
作曲活動中心に
活躍することになります。
ドイツの
都市ヴァイマールに
住み、その
当時の
ヴァイマールは
リストを
中心に
音楽の
花が
開いたのでした。このころから
晩年にかけて
教えた
生徒は400
人にもなるそうです。しかも、
決してお
礼を
受け
取らなかったそうです。
ロシアの
キエフでの
慈善演奏会で、
ヴィットゲンシュタイン夫人と
出会います。
その
頃から、13
年間ヴィットゲンシュタイン夫人と
結婚しようと
頑張りました。
結婚の
日取りを
決めるところまでこぎつけましたが、
法的事情や
家族事情で
断念せざるを
得なくなり、
失意の
中2人は
別れ別れになり、
ヴィットゲンシュタイン夫人と
同様、
リストは
修道院に
入って
死ぬまで
黒衣をまとうようになりました。『
聖エリザベトの
伝説』『
小鳥に
語る
アッシジの
聖フランシス』『
波を
渡る
パオラの
聖フランシス』など、
宗教的な
作品が
残っています。
その
後、
修道院から
ヴァイマールに
戻ります。
彼に
教えてもらいたいと
思う
人が
世界中から
集まり
ヴァイマールで
リストを
待っていたのです。
75
歳の
時、
娘コジマに
会うために、そして、
ワーグナーの「
トリスタンと
イゾルデ」を
見るために
バイロイト(
ドイツ)に
行ったのですが、
体調を
崩し
亡くなりました。
コジマの
希望で
バイロイトに
埋葬されました。
*リストの一生* 左から、少年の頃、青年の頃、壮年期、老年期
聴いてみたい曲
- ■ラ・カンパネラ(パガニーニによる超絶技巧練習曲3番)
- ■愛の夢(3つの夜想曲の3番目)
リストはたくさんの
パラフレーズ(
他の
楽器のためにある
曲をもとにして、それを
変形したり
編曲したりした
曲)を
残しています。
愛の夢ももともと歌曲として作曲した3つの曲をリスト自身がピアノ独奏版に編曲したものです。
原曲-第1番『高貴な愛』 第2番『私は死んだ』 第3番『おお、愛しうる限り愛せ』
~写真の出典はウィキペディアです~
2013年8月22日by Sonare Piano Lessons10月生まれの音楽家:フランツ・リスト はコメントを受け付けていません