
1841年9月8日、ネラホゼヴェスというチェコの首都プラハの近くで生まれました。
ネラホゼヴェス城
ネラホゼヴェス村には
ネラホゼヴェス城というお
城があります。このお
城の
持ち主は
ベートーヴェンを
支援していた
ロプコヴィッツ侯で、
音楽が
盛んな
土地柄だったのです。
ドヴォルザークは6
歳からこの
村の
小学校に
通い始めます。
小学校といっても1つの
教室に
1人の
先生だけの
小さな
学校です。そういう
学校の
先生が
様々な
楽器を
演奏して、
村の
教会の
音楽家も
兼ねているというのが、
当時の
チェコの
田舎ではよくあることだったのです。
ネラホゼヴェス村の
小学校長も
有能な
音楽家で、
小さい
時から
音楽の
才能があった
ドヴォルザークはその
先生の
指導の
下で、すぐにお
父さんのお
店や
教会で
ヴァイオリンを
弾くようになり、
教会の
合唱隊にも
入ります。
ドヴォルザーク家の
人々は
大の
音楽好きで、お
父さんは
チター名手で、
自分で
舞曲を
作曲して
弾き、お
父さんの
2人の
兄弟たち、つまり
ドヴォルザークのおじさんたちも
音楽を
愛し、
トランペットの
名手として
有名なおじさんもいました。そして、みな
肉屋兼旅篭屋(
旅人を
泊め、
食事を
供することをした
家)でした。
その
肉屋になるためには、
当時の
チェコでは、
ドイツ語を
勉強しなければならなかったのでお
父さんは
早く
家業を
継がせたいと
思い、
ドヴォルザークは
ズロニチェという
町に
勉強しに
行きます。
ドヴォルザークはそこで
優秀な
カントル(
農村部で
学校の
先生と
教会の
音楽家を
兼ねている
人)の
リーマン先生に
出会います。
リーマン先生は
ドイツ語だけでなく、
ヴァイオリン、
ヴィオラ、
鍵盤楽器の
演奏法、
実用的和声学を
教えてくれます。
16
歳の
時には、この
リーマン先生や
近くに
住んでいたお
母さん
方のおじさんが、お
父さんを
説得して
援助を
申し出てくれて、
ドヴォルザークは、
家業を
継がずに
2年間プラハの
オルガン学校に
勉強しに
行けることになります。
プラハでは
オルガン学校在籍中から
貧乏と
戦い続け、
卒業すると
生活のために
カレル・
コムザークという
楽団に
ヴィオラ奏者として
入団します。
ドヴォルザークを
生んだ
チェコは、
日本全土の
約5分の1、
北海道とほぼ
同じ
広さです。そして
約1000
万人の
人が
住んでいます(
東京都は
約1200
万人)。1620
年から1918
年まで
オーストリアに
支配され、
独立を
失い、とりわけその
初めの
1世紀半は
オーストリアの
パプスブルグ家に
完全な
植民地として
土地を
没収され、
カソリック信仰と
ドイツ語を
押し
付けられ、
民族としての
自主性をはく
奪された
暗黒時代を
経験しています。
この
暗黒時代に
チェコを
支配した
ドイツ系貴族は、
自分たちの
城や
館の
楽団で
演奏させるために
元来音楽好きの
チェコ人農奴に
演奏訓練をし、
学校での
器楽教育を
奨励していきます。この
暗黒時代が、のちに
チェコの「
ヨーロッパの
音楽院」と
呼ばれる
下地を
作り、
音楽的伝統を
培います。
そして、
チェコが
支配から
逃れ、
自分たちの
民族らしさを
取り
戻し、
復興を
目指していた
時代に
ドヴォルザークは
登場するのです。「
民族が
民族のために」と
金文字で
浮彫が
施された
プラハ国民劇場の
建設が
始まり、
カレル・
コムザーク楽団はその
仮劇場の
劇場付きオケの
核となります。
ドヴォルザークは、
ホテルや
レストランでの
演奏と
劇場での
オペラの
演奏を
毎日のように
行うのです。
その
オーケストラの
指揮者に
スメタナが
就任します。
チェコの
代表的な
作曲家である
スメタナからも
影響を
受けます。
ドヴォルザークは
プラハの
音楽学校時代から
作曲をしていましたが。そういった
青年時代の
作品は
自分の
手で
捨ててしまったものも
多くあります。
ピアノの
個人教授や
教会のお
給料は
多くなく
生活は
大変でしたが、1870
年(30
歳くらい)
頃から、
ドヴォルザークの
作品は
プラハで
取り上げられるようになります。1873
年にようやく
混声合唱と
管弦楽のための
最初の
作品である「
白山(
ビ-ラー・
ホラ)の
後継者たち」が
初演され、
愛国的な
歌詞も
受けて、
彼の
名は
プラハの
楽壇に
確固たる
地位を
占めることになります。
この
初演に
アルト歌手の
一員だった、
教え子でもある
女性アンナ・
チェルマーコーヴァーと
結婚します。
1875
年に
奨学金を
得る
コンクールで
受賞し、ようやく
生活の
不安がなくなります。その
コンクールの
審査員の
一人はなんと
ドイツの
作曲家ブラームスでした。
ブラームスは、
ドヴォルザークの
作品を
ベルリンの
出版社に
紹介されます。その
好評から、「
スラブ舞曲集第1集」が
出版され、この
時に
ドヴォルザークの
名声は
国際的なものとなりました。その
後、
ブラームスとは
兄弟のような
交際が
始まります。
こうした
幸運の
中で、1875
年から1877
年にかけて、
幼い
子供を3
人亡す
不幸もありました。
ピアノ三重奏曲ト短調、「
スターバト・
マーテル(
悲しみの
聖母という
意味です)」などの
作品にその
悲しみを
表現しています。
また、
ドヴォルザークがいつも
自分の
思い通りに
作曲できたわけではないのです。
時には
不本意な
作品も
生活のために
書き、そんなとき、
ドヴォルザークは
散歩に
出かけ、
汽車を
見るのが
楽しみだったそうです。
実は、
ドヴォルザークは
子供のころから
音楽の
次に
汽車が
好きで、その
次に
鳩が
好きだったそうです。
汽車については、
機関車の
型についても、
時刻表についても
非常に
詳しかったそうです。
オペラ作家としての
成功が
夢だった
ドヴォルザークは、
ウィーン宮廷歌劇場総監督ホフマン男爵からの
誘いを
悩んだ
末に
断り、
チェコにとどまって
愛国的作品の
作曲を
続けます。
世界的に
認められ、49
歳の
とき時には
プラハ音楽院の
作曲の
教授になり、51
歳の
時には、
アメリカ・
ニューヨークの
音楽院に
作曲科教授として
招かれ、
アメリカ大陸で
感じた
強い
印象が
有名な
交響曲9
番「
新世界から」を
生み出すことになったのです。
強い
人種差別を
受けていた
黒人や
原住民インディアンの
音楽に
強くひかれ、
アメリカの
大自然の
壮観さに
感動するとともに
自国への
郷愁も
結びついて、
生まれた
音楽なのです。54
歳の
時には
チェコに
帰り、60
歳で
プラハ音楽院の
院長、
オーストリア国会の
終身上院議員になります。60
歳の
還暦を
祝う
祝典は
プラハ、
ネラホゼヴェス両方で
行われ、
国民劇場での
彼の
オペラシリーズの
最終日には
松明行列まで
出ていました。こうして
独立回復前の
チェコの
音楽家としては
最高の
栄誉を
受けました。
ドヴォルザークの生まれた家
1904
年5
月1
日にこじらせた
風邪から
肺栓塞を
併発し
急死。
4日後に
国葬が
行われました。
12
番目の
オペラを
構想中でした。
聞いてみたい曲
- ■交響曲第9番「新世界より」
- ■オペラ「ルサルカ」 アリア「月に寄せる歌」
- ■8つのユモレスク(よく聞く有名なユモレスクは7番)
~写真の出典はウィキペディアです~
2013年8月22日by Sonare Piano Lessons9月生まれの音楽家:アントニーン・ドヴォルザーク はコメントを受け付けていません