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作曲家のお誕生日に代表曲を《284》ベルリオーズ、カルウォーヴィチ、ガルデル、カーター

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1-ルイ・エクトル・ベルリオーズ
Louis Hector Berlioz
1803年12月11日 – 1869年3月8日
フランスのロマン派音楽の作曲家。

フランス南部のラ・コート=サンタンドレで開業医の息子として生まれた。幼少期は父親の教育のもと、ラテン語や文学などを学び、14歳頃からフルートやギターに触れ、独学で作曲を学ぶ。
1821年、18歳でパリの医科大学に入学するが、解剖学への嫌悪から医学の道を断念し、1822年に父親の反対を押し切って音楽の道に進んだ。翌1823年にパリ音楽院に入学し、作曲を学ぶ。
音楽院時代、ベルリオーズはアレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴーといったロマン主義の文学者たちと親交を結び、またベートーヴェンの交響曲、特に『英雄』と『運命』に大きな啓示を受けた。
1827年からは、作曲家としての登竜門であったローマ賞に挑戦し続け、同年、シェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンに出会う。1830年、七月革命の騒乱の中で、自伝的要素を含む傑作『幻想交響曲』を完成させ、同年、ついにローマ賞を受賞した。


@KANOKOV3
この交響曲の初演は大成功を収め、ベルリオーズは一躍脚光を浴びたが、ローマ留学中に婚約者マリー・モークの裏切りを知り、深い怒りと絶望にかられて自殺まで企てるという、彼の激しい感情の起伏を象徴する出来事があった。
1832年に帰国した後、彼はハリエット・スミッソンと再会して結婚し、長男ルイを授かる。この時期、彼はパガニーニの依頼による交響曲『イタリアのハロルド』(1834年)


出典@serodriguez

フランス政府の委嘱による大規模な『死者のための大ミサ曲(レクイエム)』(1837年)といった重要な作品を次々と発表。


出典@korean.neri927
しかし、オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』(1838年)


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の初演が不評に終わると、パリの音楽界から疎外されるようになり、生活のため音楽院の図書館員を務める傍ら、雑誌や新聞で批評家として執筆活動を行うことで生計を立てた。
パリでの不遇から、1842年以降、彼はドイツ、オーストリア、ロシアなど各地への演奏旅行を敢行し、指揮者として大歓迎を受けた。特にロシアでは多額の収入を得ています。この旅行中に、ゲーテの戯曲に基づく劇的物語『ファウストの劫罰』(1846年)


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を作曲・完成させたが、その初演はパリでは成功を収めることができなかった。
晩年、彼は別居中だった妻ハリエットを1854年に亡くした後、長年連れ添ったマリー・レシオと再婚した。また、1856年にはフランス学士院会員に選ばれ、生活は安定する。この時期に、彼は自身の創作の集大成となるグランドオペラ『トロイアの人々』に着手し、1858年に完成。


@worldmusic3212
しかし、全5幕の長大さから、彼の生前には第2部のみが部分的に上演。
1862年には後妻マリーにも先立たれ、さらに1867年には一人息子のルイも失い、孤独を深めた。不健康ながらも指揮活動を続け、ロシアでの最後の演奏旅行から帰国した後、病状が悪化し、1869年3月8日にパリで65年の生涯を閉じた。
ベルリオーズの音楽は、大規模な管弦楽法と、イデー・フィクスに代表される革新的な作曲技法によって、ロマン派音楽の発展に決定的な影響を与え、その功績は死後、広く認められることとなった。

《ローマの謝肉祭》


出典@berlinphil

《序曲「海賊」》


出典@LondonSymphonyOrchestra

 

2-ミェチスワフ・カルウォーヴィチ
Mieczysław Karłowicz
1876年12月11日 – 1909年2月8日
ポーランドの作曲家・指揮者・登山家・作家・写真家。 存命中は、とりわけその華麗な交響詩により、ポーランド音楽界の再生を担う希望の星として、シマノフスキ以上に将来を有望視されていたが、タトラ山脈にてスキー遠征中に、雪崩に遭遇し死去した。

当時リトアニア領(現ベラルーシ領)のヴィシュニェーヴォに生まれる。父ヤン・アレクサンデルは歴史学者で音楽家という大貴族の家系に育ち、一家がハイデルベルク、プラハ、ドレスデンなど主にドイツ語圏を転々とする中で、幼少期から音楽に親しんだ。
1887年にワルシャワに定住し、ヤン・ヤンコフスキにヴァイオリンを師事。その後、スタニスワフ・バルツェーヴィチにヴァイオリンを学びながら、ズィグムント・ノスコフスキらに和声、対位法、音楽様式を師事し、作曲を開始。
1895年、ヴァイオリン留学を志してベルリンに赴くが、演奏家としての道を断念し、ハインリヒ・ウルバンのもとで作曲に専念(1901年まで)。留学中にワーグナー、チャイコフスキー、リヒャルト・シュトラウスを崇拝し、ショーペンハウアーやニーチェの哲学に影響を受け、悲劇的かつ甘美な叙情性、充実した半音階的和声、色彩的な管弦楽法を特徴とする作風を確立した。この時期に初期作品(作品1〜6)や、現存するほとんどの歌曲を作曲し、帰国後に交響曲ホ短調《復活》を完成。


出典@WieniawskiSociety
1901年にワルシャワに戻ると、ポーランド音楽協会の理事として組織の再建に尽力し、弦楽合奏団の創設・指導にあたるなど、ワルシャワの音楽生活再興に貢献。また、ルジツキ、フィテルベルク、シマノフスキ、シェルトらと共に音楽サークル「若きポーランド」を結成し、新たなポーランド芸術の創造を目指す中心人物として活躍した。
1906年、ワルシャワの音楽環境に耐えかね、転地療養を兼ねて深く愛着を抱いていたタトラ山脈中の小都市ザコパネへ移住。この頃から健康が優れ、作曲意欲が増し、交響詩というジャンルに専念するようになった。1904年から1909年の間に、《寄せ返す波》


出典@SinfonicadeGalicia

《リトアニア・ラプソディ》


出典@HodGabriel

《永遠の歌》


出典https://youtube.com/channel/UC1K5bPN4Zxp2FtOHBD7TZVA?si=5EQyu76Pg2gf53ay

など6曲の交響詩(作品9〜14)を作曲。また、1906年から1907年にかけてはアルトゥール・ニキシュに指揮を学んだ。
ザコパネ移住後は、作曲活動と並行して、登山家、写真家としての側面も発揮し、タトリ山岳協会の一員として山岳関連の記事執筆やスキーにも熱心に取り組む。
1909年初頭に交響詩《永遠の歌》が大成功を収め、ポーランドを代表する作曲家としての活躍が期待されたそのわずか3週間後の1909年2月8日、タトリ山脈でスキー中に雪崩に巻き込まれ、若くしてその短い生涯を終えた。享年32歳。

ポーランド広報文化センター紹介記事より

https://instytutpolski.pl/tokyo/osoba/mieczyslaw-karlowicz/

《弦楽セレナード》


出典@musicanth

 

 

3-カルロス・ガルデル
Carlos Gardel
1890年12月11日- 1935年6月24日不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優である。人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した。アルゼンチンの国民的英雄。

1870年代から1880年代にダンス音楽として誕生したタンゴに「歌」の文化的意義を確立し、世界に広めたアルゼンチンの作曲家、タンゴ歌手、俳優。

ガルデルの出生地(フランストゥールーズ説、アルゼンチン説、ウルグアイのタクアレンボー説)や生年(1887年説、1890年説)には諸説があり、特に死後の遺産処理が絡み混乱が見られますが、「私生児として生まれた」という点だけは共通している。
タンゴはその誕生時から歌われてはいたが、ガルデルが登場するまでは「詞」はあくまでダンスの添え物で、他愛のない内容だった。ガルデルは、その美声と表現力によってタンゴ歌手として一世を風靡し、後世のタンゴ歌手の目標とされるほどの別格の存在となる。彼はタンゴを単なるダンスではなく、文化的意義の融合として創造し、貧しい家庭出身の人々にとっての成功の手本ともなった。
プロデビューと「タンゴ歌唱」の確立
ガルデルは1911年にプロデビューを果たした。1913年からは民謡歌手ホセ・ラサーノとデュオを組み、1925年まで活動を続ける。
タンゴ歌唱の歴史において画期的だったのは、1917年に初めて歌った『ミ・ノーチェ・トリステ(わが悲しみの夜)』によって本格的なタンゴ歌唱を確立したこと。この曲はラテンアメリカでヒットを記録し、彼は次第に独自の道を歩むことになる。

歌唱のみならず、ガルデルは作曲の世界でも名を残した。自分のレパートリーを広げるために始めた作曲でしたが、その作品は他のタンゴ楽団にも取り上げられ、現在でも多くのタンゴ歌手がレパートリーに加えている。特に、伴奏ギタリストも務めていた作詞家アルフレッド・レ・ペラとのコンビによる作品が有名です。代表作には、『わが懐かしのブエノスアイレス』(Mi Buenos Aires querido)


出典@carlosgardelok
や『ボルベール』(Volver)、そして映画挿入歌として有名な『首の差で』(Por una Cabeza)などがあります。
彼は1920年代にタンゴを海外(バルセロナ、パリ、ニューヨーク、ウルグアイ、チリ、ブラジル、コロンビアなど)で流行させ、各地に演奏旅行を繰り返しました。その活躍ぶりからアルゼンチンでは「偉大なる渡り鳥」というニックネームで呼ばれる。
また、ガルデルは映画俳優としても有名で、全スペイン語圏で人気を博した。出演映画の中では必ず歌を披露し、その二枚目的な風貌と相まって人気はますます高まった。

1935年、ガルデルはニューヨークでの映画撮影を終え、アルゼンチンへの帰途につくが、コロンビアのメデリン空港から飛び立とうとした際、彼と伴奏ギタリストのアルフレッド・レ・ペラらが乗る飛行機が離陸に失敗し、墜落炎上。ガルデルらは焼死という悲劇的な最期を遂げた。

 

 

4-エリオット・カーター
Elliott Carter
1908年12月11日 – 2012年11月5日
アメリカの現代音楽の作曲家。

ニューヨークに生まれ、2012年11月5日(あるいは10月25日)に103歳で亡くなるまで、75年以上にわたり現役で活躍した、アメリカを代表する前衛作曲家。

幼少期にヨーロッパで過ごし文化的な影響を受けた後、10代でストラヴィンスキーの『春の祭典』に魅了され、音楽教師クリフトン・ファーネスの紹介でチャールズ・アイヴズに師事。アイヴズの推薦状を得てハーバード大学に進学し、音楽学部を保守的だと感じたため、英文学を専攻した。その後、同大学でウォルター・ピストンやグスタフ・ホルストに師事して修士号を取得。ボストンのロンジー音楽院でも学びました。さらにパリへ渡り、エコール・ノルマル音楽院で学びながら、ナディア・ブーランジェに師事。

カーターの作風は生涯を通じて進展を続けた。キャリア初期の1930年代には、ストラヴィンスキーやヒンデミットの影響を受けた新古典主義に傾倒し、バレエ音楽『ポカホンタス』や『交響曲第1番』といった作品を残した。しかし、1940年代には新古典主義から離れ、『ピアノ・ソナタ』や『チェロとピアノのためのソナタ』において、楽器固有の奏法や音色を重視する「対照性」を確立。

1950年代にはセリー技法を応用しつつ、アリゾナ州での隠棲中に作曲した『弦楽四重奏曲第1番』が国際的な成功を収め、モダニズムを代表する作曲家としての地位を確立した。
続く中期、カーターは独自の音楽言語を追求し、「リズミック・モジュレーション」や「ピッチクラス・セット理論」といった概念を打ち出す。この時期の作品はリズムとハーモニーが極度に複雑化し、演奏難易度も高い。
『二重協奏曲』(1961)


出典@bostonsymphony

ストラヴィンスキーに献呈された『ピアノ協奏曲』(1964-65)


出典@hu6770

『弦楽四重奏曲第3番』(ピューリッツァー賞受賞)が代表作。


出典@ContemporaryClassical
1970年代後半、ピエール・ブーレーズからの評価をきっかけに、カーターはヨーロッパ方面からの認知が進んだ。1980年代以降の後期作品では、複雑な書法を維持しつつも難易度が落ち、聞き易くなったことで演奏家へのアピールに成功した。
晩年まで作曲意欲は衰えず、100歳を超えても現役として委嘱を受け続けた。晩年の作品には、ユーモア溢れる作風や軽やかさが加わり、協奏曲が多く見られます。亡くなる数週間前に『12 Short Epigrams』を完成。


出典@hardtofindscores
彼はまた、コロンビア大学、イェール大学、ジュリアード音楽院などで長期間教鞭を執り、アメリカ音楽界において卓越した地位を占めた。

ピティナピアノ曲事典より
https://enc.piano.or.jp/persons/878

《エスプリ・リュド/エスプリ・ドゥ》


出典@ljhockley

再生リスト

12月12日

Author: Sonare Piano Lessons

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