1-ガエターノ・ドニゼッティ
Gaetano Donizetti
1797年11月29日 – 1848年4月8日)は、イタリアのベルガモに生れて同地で没したオペラの作曲家。
19世紀前半のイタリア・オペラを代表する作曲家の一人。ジョアキーノ・ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に人気を博し、70作を超えるベルカント・オペラを作曲。
北イタリア、ロンバルディアのベルガモ郊外(ボルゴ・カナーレ地区)にて、5人きょうだいの末子として生まれる。生家は貧しく、父アンドレアは当初、荷役人足として働いた後、市公営質店の守衛となった。一家は後に質店の別棟に住居を移した。
1806年(9歳頃)、ベルガモ大聖堂の楽長を務めていたドイツ人作曲家ヨハン・ジモン・マイヤー(Johann Simon Mayr)の慈善音楽院で才能を見出され、音楽と歌唱の基礎を学ぶ。
1815年(18歳頃)、マイヤーの尽力でボローニャ音楽院に入学し、ロッシーニの師でもあったスタニズラオ・マッテイに師事。最初のオペラ作品《イル・ピグマリオーネ》を完成させる。
音楽の道を志すが、法律家になることを望む父の束縛を逃れるため、軍隊に志願し、兵籍のまま作曲活動を続ける。
1818年に作曲したデビュー作『Enrico di Borgogna』
出典@gettyO89
が認められ、兵役を免除される。
ナポリでの成功と名声の確立
1819年〜1822年にかけて約20作のオペラを手がけ、イタリア全土で好評を博す。
1822年(25歳頃)、ナポリのサン・カルロ劇場の支配人ドメニコ・バルバイアと契約を結び、ナポリに移住。この地で51ものオペラを初演した。
1827年には、ナポリの劇場支配人バルバイヤと、年に4作品の新作オペラを3年間提供する正式契約を結ぶ。
1828年頃、ローマの旧家出身のヴィルジニア・ヴァッセリと結婚。この際、出自の貧しさを恥じ、両親やその職業について隠したとされる。
1830年(33歳)、ミラノでオペラ『アンナ・ボレーナ』
出典@DonGaetanoDonizetti1
が初演され、歴史的大ヒットとなり、国際的な名声を確立。
1832年には傑作喜劇
『愛の妙薬』(英語字幕あり)
出典@AsdfGhjkl-vf1vy
をミラノで発表。特にテノール・アリア「秘められた涙」が有名。
1835年、ソプラノの「狂乱の場」で知られる悲劇
『ランメルモールのルチア』(英語字幕あり)
出典@alteamedia
をナポリで初演。
ベッリーニが早世した後、ほぼ10年間、イタリア・オペラを代表する作曲家となる。
1839年(42歳)、オペラ『ポリウト』をナポリで上演しようとしたが検閲官に拒否され、フランス語に改題した
『殉教者』
出典@OperaRaraOfficial
をパリで初演。
カトリック教会の検閲に悩まされたこともあり、1838年にナポリからパリへと拠点を移す。その後は、パリからイタリアやウィーンへ遠征するようになった。
1840年、パリのオペラ座で
『ラ・ファヴォリット』
出典@PierrotBoccanegra
オペラ・コミック座で
『連隊の娘』
出典@daryakiryushko2246
を初演。同じ作曲家の異なる作品が同時上演される異例の状況で、観客の熱狂を呼んだ。
1842年、ウィーンのケルントナートーア劇場で
《シャモニーのリンダ》
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が初演され大成功を収める。オーストリア皇帝フェルディナント1世から宮廷楽長および宮廷作曲家のポストを与えられ、ウィーンに居を定める。
1842年末、パリを訪れ、新作喜
『ドン・パスクワーレ』
出典@leonora4343
を初演。大成功を収め、これが事実上最後の快挙となった。
1843年にパリで上演された『ドン・パスクワーレ』は、現在でもオペラ・レパートリーの定番として広く愛されている。
1844年(47歳頃)から、梅毒や双極性障害が原因と思われる頭痛や神経性麻痺に苦しみ始める。
病のためフランスの病院に17ヶ月ほど入院した後、故郷ベルガモに戻る。
1848年4月8日、ベルガモにて50歳で死去。
オペラ作曲家としてだけでなく、歌曲、室内楽、ピアノ曲、数多くの教会音楽など、あらゆるジャンルを作曲した。
余談:兄のジュゼッペ・ドニゼッティ(Giuseppe Donizetti)は軍楽隊の洋楽教師としてオスマン帝国に駐在し、マーチなどを作曲し、パシャの称号を与えられた。
音友マガジンの記事面白いです
https://ontomo-mag.com/article/column/donizetti-menzogna/
2-チャック・マンジョーネ
Chuck Mangione
1940年11月29日-2025年7月22日
公式サイト
本名:Charles Frank Mangione)
アメリカ合衆国出身のトランペット奏者、フリューゲルホルン奏者、作曲家で、ジャズ・フュージョンの分野で多大な功績を残した。
ニューヨーク州ロチェスターでシチリア系の両親の間に生まれ、イーストマン音楽学校を卒業。
幼少からトランペットを学び、1960年からは実兄のギャスパー・“ギャップ”・マンジョーネと「ザ・ジャズブラザーズ」というハード・バップ・ジャズ・バンドを結成。
1965年には、アート・ブレイキーのバンドに参加し、ジャズメンとして名を上げる。
フュージョンへの転向と世界的成1960年代後半頃にトランペットからフリューゲルホルンに楽器を持ち替え、音楽性をフュージョン方面に転向。
ラテン・テイストをふんだんに取り入れたメロディアスで心地よいナンバーを次々と発表し、全米で大ヒットを記録。彼の音楽には、イタリア系という出自からくるラテン音楽との親和性が感じられる。
• グラミー賞受賞
1975年:アルバム『哀しみのベラヴィア』でグラミー賞を受賞。
1978年:アルバム『サンチェスの子供たち』で2度目のグラミー賞を受賞。
代表曲「フィール・ソー・グッド」(1977年制作のアルバムタイトル曲、1978年初頭にシングルカット)は全米のヒットチャートでトップ5入りを果たし、同タイトルアルバムはBillboard 200でトップ2を獲得。ジャズでは異例の大ブレイクを記録。
1980年の「栄光をめざして」は、レークプラシッドオリンピックにちなんで制作されました。
2025年7月22日、ロチェスターの自宅で睡眠中に安らかに死去しました(享年84歳)。