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作曲家のお誕生日に代表曲を《244》チェスノコフ、カールマン、エルナンデス、ベリオ、グバイドゥーリナ、ロザウロ、スミス

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1-パーヴェル・グリゴリエヴィチ・チェスノコフ
Павел Григорьевич Чесноков、Pavel Grigorievich Chesnokov
1877年10月24日~1944年3月14日)は、ロシア~ソ連の作曲家。

モスクワ・シノド学校に10年にわたって学んだ後、作曲をセルゲイ・タネーエフとミハイル・イッポリトフ=イワノフに師事。モスクワ音楽院でセルゲイ・ワシレンコに師事して自由作曲を修得しようとする頃には、すでに作曲家として確固たる名声を博していた。その後は出身校の宗教学校で25年にわたって合唱の指導を行い、その後はモスクワ音楽院で教壇に立った。チェスノコフは、伝統的な豊かな和声構造と、重低音の用法を取り入れた。生涯にわたって合唱曲の作曲を行なった。
共産党の一党独裁体制が始まるまでは、カスタルスキーやアルハンゲルスキーと並んで、ロシア正教会の重要な作曲家であった。ロシア革命後、「宗教は阿片である」と政府の公式発表があったり、作曲家に書けるものがより大きく統制されてから、教会音楽家は宗教音楽にたずさわる限り、自分自身や身内に弾圧が及ぶ惧れを懸念せざるを得なかった。このためチェスノコフは、音楽活動と家族の生命を守るために、二度とそれ以上の宗教曲を作曲することはなかった。これ以降は世俗の合唱曲の創作に転じ、生活のためにソ連政府のプロパガンダ歌曲のようなものも手がけた。
ソ連時代の末期に共産党の威力が衰え、ロシア正教会が再び力を盛り返すと、チェスノコフの聖歌も復活を遂げた。

《10 Communion hymn》

出典@clementisscoresandotherworks

《10の合唱曲》より1番

出典@gorgeousclassicalunknown

2-エメリヒ・カールマン
Emmerich Kalman
本名カールマーン・イムレ
Kálmán Imre
1882年10月24日-1953年10月30日
ハンガリー出身のオーストリアの作曲家。

ハンガリーのバラトン湖南部のシオーフォク生まれ。
演奏会ピアニストとして立つ意向であったが、関節炎を患い、作曲に専念した(父親が破産したためとも言われる)。
ブダペストのフランツ・リスト音楽アカデミーにてハンス・ケスラーに師事、バルトークとコダーイ・ゾルターンの同窓生となった。
ユーモラスなキャバレー・ソングの人気によって、オペレッタの作曲の道に。
オペレッタ『愉快な騎兵』(Tatárjárás、独語名は Ein Herbstmanöver )は、1908年ブダペストにおいて初演され成功。
その後ウィーンに移り、『チャールダーシュの女王』(Die Csárdásfürstin)

出典@pierrehebrant6678

『伯爵令嬢マリツァ』(Gräfin Mariza)英語字幕あり

出典@viljaovilja7
などの作品によって世界的な名声を収めた。
カールマンはフランツ・レハールとともに、20世紀初頭における「ウィンナ・オペレッタ銀の時代」の代表的な作曲家。
カールマンは、ウィンナ・ワルツとハンガリーのチャールダーシュの融合で知られる。
詞・台本こそドイツ語のものを用いたものの、両親ともドイツ系でチェコ育ちでもあるレハールに比べハンガリー色は遥かに濃い。また、チャイコフスキーの管弦楽法を模範としているものの、ポリフォニーの構成や旋律法においては、プッチーニを理想とした。新時代の軽音楽としてのフォックストロットを採り入れ、ドラム・セットを用いたダンス・バンドに近い響きも試みている。
第二次世界大戦中はナチス・ドイツの弾圧を避けてアメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア州に定住し、1942年に市民権を得てアメリカに帰化した。
1949年にニューヨークを発ちパリに渡り、同地で他界した。
日本では長らく知名度の低い作曲家の一人であり、LP時代の終わりごろになってようやく『チャールダーシュの女王』の全曲レコードが初発売された程度であったが、ウィーン・フォルクスオーパーの引越し公演などを契機に1980年代から人気が高まり、現在は欧米に劣らず人気を保っている。

3-ラファエル・エルナンデス
Rafael Hernandez
1892年10月24日-1965年12月11日
20世紀のプエルトリコの最も重要なポピュラーミュージックの作曲家の一人である。日本においては、エルナンデスの作曲した『エル・クンバンチェロ』 (El Cumbanchero)

出典@tkwojapan

が高校野球の応援曲の定番曲の一つとなっている。

1892年10月24日にプエルトリコのアグアディヤの貧しい家庭に生まれる。音楽への興味を抱き、12歳の時に両親に頼んでサンフアンの音楽学校で学ぶことになる。14歳の時にはサンファンに住居を移し、市立オーケストラに参加して演奏するようになった。結婚し、1913年には最初の子供アントニオを授かっている。
アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦した1917年、エルナンデスはノースカロライナ州でミュージシャンとして働いていた。ジェームス・リーズ・ヨーロッパは、エルナンデスと弟をはじめとするプエルトリコ人16人の計18人を雇い、アメリカ陸軍第369歩兵連隊へ軍楽隊として入隊させ、ヨーロッパでの演奏行を行わせた。この功績から、エルナンデスはフランスの戦功章クロアド・ゲールを授けられる。
第一次世界大戦終戦後、除隊したエルナンデスは1920年代になってニューヨーク市に居を構え、トリオ・ボリンカーノ(Trio Borincano)を結成する。トリオ・ボリンカーノには同じプエルトリコ出身の作曲家ペドロ・フローレスも加わった。

4-ルチアーノ・ベリオ
Luciano Berio
1925年10月24日-2003年5月27日
イタリアの作曲家。自作の指揮なども手がけている。当初は、バルトークやストラヴィンスキーなどの影響が色濃く見られていたが、やがてセリー技法に関心を示すようになった。

ピティナピアノ曲事典より

https://enc.piano.or.jp/persons/303

《ナトゥラーレ》

出典@recrystal

《オーパス・ナンバー・ズー》

出典@untrecserv

Sequenza VIII

出典@jeanpascalchaigne

《6つのアンコール – 水のクラヴィア》

出典@GNGianopoulos

《Psy》

出典@koniiri

5-ソフィア・アスガトヴナ・グバイドゥーリナ
Sofia Asgatovna Gubaidulina
1931年10月24日-2025年3月13日
ソ連邦のタタール自治共和国(現在のロシア連邦タタールスタン共和国)出身の現代音楽の作曲家。

ぶらあぼより

野原に出ては作曲家になりたいと祈るかたわら、イコンに惹かれるような少女であったという。
1932年に家族でカザンに引っ越す。
1946年から1949年までカザン音楽ギムナジウムでピアノと作曲を学び1949年から1954年までカザン音楽院で作曲をアリベルト・レーマン・グレゴリー・コーガン (Коган Григорий Михайлович) のクラスで学ぶ。
1954年に同校を卒業してモスクワ音楽院に進み、ユーリ・シャポーリンのクラスで学び、その後作曲をニコライ・ペイコ (Пейко Николай Иванович) 、ピアノをヤコフ・ザークのクラスで学ぶ。
さらにモスクワ音楽院の研究生として1963年までシェバリーンに師事し、卒業した。
ソビエト・ロシアで修学中に、新しい音律を探究したために「いい加減な音楽」との烙印を押されたが、ショスタコーヴィチの支持を得た。ショスタコーヴィチはグバイドゥーリナの卒業試験で、これからも「誤った道」に取り組みつづけるように激励したという。
1970年代半ばに、作曲家仲間のヴィクトル・ススリンやヴャチェスラフ・アルチョーモフらと、民族楽器を用いた即興演奏グループ「アストレヤ」を結成。
1980年代初頭にギドン・クレーメルの擁護を得て、ヴァイオリン協奏曲「オッフェルトリウム」がソ連邦の国外で演奏され、これが現在の国際的な名声のきっかけとなった。その後にT・S・エリオットの霊的な詩集に啓発を受け、この詩人へのオマージュを作曲している。
ペレストロイカが始まり、以前にもまして名声が高まると、ソ連を出て西ドイツに移住した。現在もドイツを拠点に自由な作曲生活を謳歌している。
2000年に、タン・ドゥン、オスバルド・ゴリホフ、ヴォルフガング・リームの3人と共に、シュトゥットガルト国際バッハ・アカデミーの委嘱によって「新ヨハネ受難曲」を作曲、これに続いてハノーファー放送局の委嘱によって、さらに「ヨハネ福音書による復活祭オラトリオ」を完成させる。これらの2曲は、イエス・キリストの死と復活を描いた「2部作」と呼ばれ、今のところグバイドゥーリナの最大規模を誇る作品となっている。なお、「新ヨハネ受難曲」というのはあくまで俗称であり、作曲者自身は「ヨハネ受難曲」と名づけている。
2005年には、ベートーヴェンの「交響曲第5番」に倣った「終末の光明」が、プロムスで上演されている。
2025年3月13日、移住先のドイツで死去。93歳没。

《シャコンヌ》

出典@Astathis

《2つのバリトンサクソフォンのためのデュオ・ソナタ》

出典@harukainoue2963

《2本のファゴットのためのソナタ》

出典@XxXjoeqiuXxX

6-ネイ・ロザウロ
Ney Rosauro
1952年10月24日~
ブラジルの作曲家、パーカッション奏者。

ブラジリア大学で作曲と指揮を学び、学士号を取得。その後、ヴュルツブルク音楽大学に進学し、ジークフリート・フィンクに師事して修士号を取得。
彼は1987年から2000年までサンタマリア連邦大学の打楽器ディレクターを務め、その後アメリカに移住して2000年から2009年までマイアミ大学で教鞭を執った。
2023年に打楽器芸術協会の殿堂入りを果たす。
彼の作品であるマリンバと弦楽オーケストラのための協奏曲第1番は1986年に作曲され、世界中で最も頻繁に演奏されるマリンバ協奏曲のひとつ。

ホームページ
https://www.neyrosauro.com/

《ブラジル民謡組曲》

出典@cep-emb

《日本序曲》(さくらさくらが出てきます)

出典https://youtube.com/channel/UChIYR7Os4YhQUsvaAWMwbqw?si=i2h9M0YvBB7MGKDS

7-ロバート・W・スミス
Robert W. Smith
1958年10月24日 –
アメリカ合衆国の作曲家、編曲家、指揮者、音楽教師。主として吹奏楽や映画音楽の作曲家として知られる。

アラバマ州に生まれ、同州トロイのトロイ州立大学に入学、マーチングバンドで首席トランペット奏者を務める傍ら、ポール・ヨーダーに師事。
トロイ州立大学で音楽学士号を受けて卒業後、スミスはフロリダへ移り、1990年にマイアミ大学で音楽修士号を取得した。また、この時期アルフレッド・リードに師事している。
スミスは1997年にトロイに戻り、トロイ州立大学のバンドディレクターに就任する。以後、音楽産業プログラムの教授を務めながら、同バンドで指揮を行うとともに、多くの楽曲を作曲している。ワーナー・ブラザース出版社(Warner/Chappell Music)の編集者を務めていたが、音楽出版部門のアルフレッド出版社(Alfred Music Publishing)への売却にあわせて職を辞し、バーンハウス社(C. L. Barnhouse Company)に移籍して同社およびそのCDレーベルであるウォーキング・フロッグ・レコードの商品開発担当副社長に就いている。
2023年9月21日、心臓手術の合併症により死去。

《海の男達の歌》

出典@AlfredMusicConcertBand

《伝説のアイルランド》

出典@metal574

《月への12秒》

出典https://youtube.com/channel/UCSD69DvX6M6ExVXUvKj7edg?si=e6peJovE3Y5VNc12

《交響曲第1番「神曲」》

出典@thierryburton5988

Author: Sonare Piano Lessons

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